年齢なんて関係ない!自分のペースで記録を狙う、フリーダイビング(その2)

オフィシャルトップまでのカウントダウンが場内を響く中、選手たちは超えなければならない己の記録を前にして、ただひたすら平静であることに祈りを捧げるようだった。

そこにあるのは観戦ではなく、静かな挑戦

先にも述べた水平距離を競う「ダイナミック・アプネア」も、この日の午後の競技種目に編成されており、32名の選手たちがプールの両サイドに2組に分かれて、片道50mのプールをある者はフィンと呼ばれる魚の尾びれの形を模した泳具を足先に付け、またある者は素足のまま、思い思いに潜って往来することになる。

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両足を固定して履くタイプのモノフィン。
慣れない人はまずはじめは片足ずつ履くタイプのステレオフィンを勧められる。

またそういった選手たちの泳ぎと並行して、プールサイドの上をジャッジマンとスタッフ、そしておそらくご家族や友人と思われる応援団がぞろぞろと歩き、トラックレコードに挑む選手をそれぞれの思いで見守る、そんな光景がこの試合のいわば「基本形」だ。

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選手と並んで歩行する審判や観客たち。

ここでふと読者のみなさんはそれまで抱いていたイメージとのある種のギャップに気が付くと思う。
通常スポーツと言えば、サッカー然り、野球然り、大勢の観客に見守られて、多大な声援を受けながら力と技術をぶつけ合い、誰もが勝者を夢見、渇望し、必死に相手に負けまいと全身全霊を出し尽くすといった、まさに汗と感動に包まれた躍動的なシーンを想起するだろう。
テニスやゴルフにしても、プレイ中は息を飲むような静けさも一時的にはあるとはいえ、サーブやショットが見事に決まれば、当然観客はそれに値する賞賛を選手へ投げかける。(逆にしくじれば、それなりの反応がやはりある。どちらも直情的だ。)

しかしながらこのフリーダイビングというスポーツは、まるでそういった喧噪とは無縁で、タイムを競うにせよ、距離を競うにせよ、それを見守る者はとにかく「黙っている」。
これは大会規模が世界クラスになっていけば、また事情がいくらか変わるのかもしれないが、ここ辰巳での試合は、ともかく静けさの中でただひたすら選手が自身の記録を更新するために黙々と泳ぐ、それをジャッジマンや幾人かの関係者がそぞろ歩きながら選手が水面に浮上してくるのを今か今かとハラハラしながら見守る、そういう神経戦のような印象があった。

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競技を目前に控え精神を集中させる選手。

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静寂の中、決意とともに選手は力強く推進する。

何かに似ているなと、どうしても思い出せなかったそれが、今こうして記事を書いているときに思い当たった。
そう、フリーダイビングの試合の空気は、囲碁や将棋のそれと似ているのだ。
時に冷ややかな緊張感の中で、この試合の行く末を案じながら、次の展開を見守る、そういった時を刻むような音が今にも聞こえ出しそうな静寂さが、このフリーダイビングの試合会場にも横たわっているのだ。

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ひとたび水に潜ると、そこは己との勝負が待ち受けている。

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フィンなしで気の遠くなるような距離に挑む選手。

だがその一方で、囲碁や将棋とはまったく異なる事情が、フリーダイビングにはある。
それは相手を必要としているか否かの違いだ。
フリーダイビングはいわば記録との勝負。
その瞬間瞬間において誰か具体的な他者と競い合うというよりも、克服しなければならないのは数字のみ。それは「速度」や「パワー」といった、一度によーいドンッという計測の仕方で挑む性質のものではないため、選手たちも競技開始のカウントダウンが始まって「0」を迎えてから(これは「オフィシャルトップ」と呼ばれる)、10秒以内に自身の体内リズムに合わせてスタートすればよい。

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オフィシャルトップを迎え、水に潜り込んだ選手。

考えても見れば、応援者が声を限りに選手に歓声を浴びせることがないのも当然と言えば当然だ。
つまり、水中では陸上の空気の振動は(ほぼ)聞こえないのである。

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水中ではカメラを構えたスタッフが選手たちのストロークを映像に収める。

その一方で、これは廣瀬選手に教えてもらったのだが、今回会場となった辰巳のサブプールでは、誰かが競技している間も、他の選手が同じプール内で次の競技を控えているわけで、彼らの心拍数にむやみにストレスを与えないために、必要以上の音は出さないよう、応援する側も配慮しているのだと言う。
そういう意味ではこの競技、精神的な揺れ幅が致命的になるとも言える。

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対岸では別の選手が競技に挑む。

 

ゆるそうに見えて実は厳しい採点が待つ

フリーダイビングは採点方式で競い合う。その中にいくつかのルールがあり、競技中にNG行為を取ってしまえば、その分減点されてしまう、というからくりだ。
例えば先の水平距離を競う競技であれば、オフィシャルトップ後10秒を超えてスタートすれば遅れた分だけ減点対象となるし、泳いでいる間に水面にフィンも含めた体の一部が出てしまえば、これもまた減点されてしまう。

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競技のルールは厳しく、ターンの仕方にも取り決めがある。

それよりも厳しいのは泳ぎきった後だ。

長い閉息を経てやっと選手が水面に顔を出したら、「浮上後動作手順(サーフェスプロトコル)」という所作をしなければならない。
これはどういうことかと言うと、以下の手順で定められた所作をやらなければ、減点、ひどいときには失格になってしまうのだ。

  1. 顔面の装備(マスクやノーズクリップなど)をすべて外す。
  2. ジャッジの方を向き、手でOKサインを1回外す。
  3. 「I’m OK」または「I am OK」としっかり発言する。

やっかいなことに、1~3の手順を変えてもだめだし、また1~3までの動作に所要する時間が15秒を超えることも許されない。
この間、唇がわずかでも水面に触れては失格になるとのことだから、選手たちは朦朧とした意識の中でこの数秒間、取り違えることなくOKポーズをとらねばならないのである。

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完泳後、サーフェスプロトコルに臨む選手。
プロテストに備え念のため映像撮影も行われる。

事実、この日は日本代表選手でもあり、女子の深度記録保持者の中では世界の3本の指に入ると言われる岡本美鈴選手も参加されており、彼女のフィン付水平距離の日本第二位の記録である177mがあわや更新されたかと誰もが息を飲んだが、無情にも審判が彼女に突き付けたのはなんとレッドカードだった。
当の本人もその瞬間「えっ?レッド?」と当惑されていたが、その理由を聞いて僕は愕然とした。
審判いわく、「OKサインが主審ではなくカメラに向かって出された」とのこと。

肉体的にも精神的にも限界ギリギリのところで無意識に差し出されたサービスだったのかもしれない。
この日、岡本選手の179mの記録は幻となった。

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無事にサーフェスプロトコルを合格した選手にも、
あえなく失格に終わった選手にも、
競技後は温かい拍手と声援が送られる。

 

その3へつづく。

 

< もくじ>

 

 

執筆:U